1975年にスタートしたサミットは2024年のイタリア開催のサミットで50周年。国連憲章のような公的文書による定めがないフォーラムが,超多忙な首脳を集めて,半世紀も休まず続けられてきたことは,それだけ政治的意味があるからだろう。
50年間に及ぶ歴史において,サミットが質的変容を遂げてきたことは言うまでもない。取り扱うテーマから見れば,おおまかに言って,前半の25年と後半の25年に分けたほうがわかりやすい。後半は文字通り「なんでもあり」なのに対し,前半の25年はおおまかにテーマの力点に以下のような特徴がある。
ざっくり5年ごとに区切れば,こんな感じになる。
①1975年から79年(純経済サミットの時代)
②1980年から84年(政治サミットの時代)
③1985年から89年(経済サミットへの回帰の時代)
④1990年から94年(冷戦後の政治サミットの時代)
⑤1995年以降 (グローバル・ガバナンスを模索する時代)
これら5つの時期は冷戦の終結を境として,さらに前期と後期に二分してもよいだろう。その場合,①から③の時期(1975年から89年まで)は参加国の政策調整を中心とした時代であり,④と⑤の時期(1990年以降)はグローバル・ガバナンスを模索するようになった時代になる。いまにいたる素地が形成された時期と言い換えてもよい。

G7サミットの50年の歴史を理解するには,まず25年ごとに前半と後半に分け,さらに前半に5つのフェーズがあったとするとわかりやすい!
さて,前半の25年だが,1975の発足当初,サミットは先進各国が経済政策の協調を図るための政治システムであった。そして事実,70年代のサミットはそうした意図だけで運営されてきた。
そもそも,75年にサミットが登場した背景の一つにも,国際的な政治状況の変化があった。石油などの天然資源を「武器」とした資源ナショナリズムの台頭である。当時の国際紛争の主たる対立軸は「冷戦」と呼ばれた東西間の軍事的対立であった。そこに新たに南北という対立軸が現れたのである。しかも資源を握る中東諸国からの政治的圧力は,先進国の経済状況に悪影響を与える点で,東西冷戦よりも「直接的な脅威」となった。前例のない事態に各国がうろたえたためか,73年の第一次石油危機のときには,中東情勢への対応に先進国間の姿勢の違いが顕著に見られた。東欧諸国への対応ではアメリカの方針に基本的に従うことが共通理解となっていたが,南北問題への対応についてのコンセンサスは存在していなかったからだ。
しかし,79年の第二次石油危機のときには,先進国は協調して事態に対処できた。79年の東京Ⅰ・サミットは,大半の時間をエネルギー問題に充て,最終的には各国のエネルギーの利用についての取り決めをまとめることに成功した。4年目を迎えていたサミットは,新たな国際状況の変化に対応する場として有効に作用したのである。

サミットの誕生は,東西対立とは別に南北対立が看過し得なくなったためでもあった!
その後,サミットは1980年代前半,「新冷戦」と呼ばれる状況のなか,西側主要国の結束を世界に誇示する政治的役割も果たすようになる。その後,冷戦が終結し,ソ連・東欧諸国の政治体制の変革が実現すると,サミットはこれらの国々の政治・経済システムを安定させるために,次々と方策を打ち出していった。とくにロシアが安定することは,核兵器の管理の上からも重要であった。「東西関係」の劇的な変化も,サミットの動きとともに進行したと言ってよい。
新冷戦とソ連崩壊のあいだの時期,1980年代後半はいわゆる「プラザ合意」をきっかけに一時期,サミットの話題の中心は先進国の経済政策の協調に戻った。東西の緊張は1985年のソ連ゴルバチョフ政権の誕生で一服の様相となっていた。G5財務相・中央銀行総裁会議が決定した「プラザ合意」とは,G7のうちイタリアとカナダを除く5か国が協調して為替市場に介入し,ドル高を一気に是正した政策協調を指す。これをきっかけに財務相・中央銀行総裁が参加するG5の会合は,サミット・システムの一部として公式化され,G7の会合へと変えられた(1986年の東京Ⅱ・サミットで合意)。
環境問題などが主要テーマになってくるのは1990年代からである。1992年には国連が主導する「地球サミット」も開かれ,先進国の対応を協議する必要性が増したことも, G7サミットの議論に大きな影響を与えた。こうして,2000年代以降はグローバル・ガバナンスを担う主要メカニズムとして,あらゆる国際問題に対処することが当然視されるようになったのである。
(各時代の詳述は別稿にゆずる)
