弁論大会やディベートを学校教育に!

公共教育(シティズンシップ教育)というと、選挙の投票の練習をしてみたり、環境保護のために何ができるか考えてみたり・・といった「無難なもの」がよく行われている。しかし、それだけでは政治のむずかしさや、政治活動を通じて得られる充足感は伝わらないのではないだろうか。

わたしは、政治を体験する早道は、言葉の政治的利用に目を向けることだと思う。説得というコミュニケーション活動がもつ政治性を体感することだと思う。 

アメリカでは学校教育でディベートの訓練をするという。ディベートは、ディスカッションと違って、いわば強引に自説を押し通す訓練である。論争に勝って、自分の意思を集団全体の行動に反映させるための技術、と言い換えてもよい。

日本の教育界は、「国語」の授業での「言語の政治的利用の訓練」には積極的ではない。小説等について作者の意図を探ることには熱心であるが、自分の意図を無理してでも実現させようとする「言葉の力」の習得などは、「国語」の学習対象とは思われてはいない。ましてやバトル的要素を伴う論争(ディベート)など、論外だと考えられているのではないか。

もし「国語」で無理なら、「社会」や「公共」で言葉の政治的利用を偏見なく教育・訓練するのはどうだろうか。異なる価値観の人たちの前でスピーチし、聞き手を説得し、あるいは真剣に議論できる「言葉の力」が身につく教育は、今の時代、文化の多様性などについて学ぶことと並ぶ、国際的に通じる教養教育といえるのではないだろうか。

国際的に通じる人材になろうと思ったら、スピーチやディベートのトレーニングはしておいたほうがいいよね!

人間を「政治的動物」ととらえたアリストテレスは『弁論術』を書いて、不可欠な教養の1つに修辞学(レトリック)を含めた。日本でも、明治時代に民主政治を根づかせようとした人たちが、「弁論」あるいは「雄弁」のトレーニングを大学教育に取り入れようとした(福沢諭吉は慶應義塾に「演説館」を建て、早稲田大学には「雄弁会」ができた)。

ちなみに、大きな声で怒鳴っただけでは、「弁論」や「雄弁」がうまいとは言われない。評論家にでもなったつもりで斜に構えて批判をしても、人びとは行動を起こさない。「弁論」や「雄弁」は聴衆の心を揺さぶりながら、結果として自分の意見に賛同してもらい、さらにそれを行動につなげてもらう技術である。やってみれば、このむずかしさはすぐにわかる。

今の時代、人材不足は政界でも顕著である。地方議会では立候補しただけで当選できる「無投票当選者」が多くなっている。「政治を担う者」の立場を理解し、その意義や充実感を知るための教育は、政治を批判的に見る訓練と少なくとも同程度には、重要だとわたしは思う。そのためにも、弁論大会やディベートをぜひ学校教育に取り入れてほしいと思っている。

政治の担い手を増やすためにも、「公共教育」では弁論術を教えてほしいなぁ!