サミットはただの「恒例行事」ではない!

1975年以来,毎年サミットは開催されてきた。そして,その開催地には,多忙を極める各国首脳たちが,ときには病をおしてまで集まってきた。恒例行事化したという惰性だけでは,毎年,主要国の政治指導者を全員集めることは困難である。わざわざ出かけて行く必要を感じないならば,各国首脳には不参加の道もある。顔合わせの席にいないと不都合が生じる懸念はあるとしても,なにかそれらしき理由をつけて相応の代理人を立てれば済むことだ。

しかも,サミットは形式的には次の開催国が他の参加国を招待するかたちで続いてきている。国際連合のように本部があって,多くの職員が働いている組織ではない。ようするに,やめようと思えば,いつでも簡単にやめられるのである。それでもこの政治フォーラムは続けられてきた。

サミットについては,各国首相の国内向けパフォーマンスにすぎない,との批判がある。首脳が集まって2・3日語り合ったとしても,たいした成果などあげられるわけはない,という冷笑もある。だが,そうした批判を乗り越えて,サミットは今も続けられている。かりにただの恒例行事に見えたとしても,多忙な首脳たちが半世紀にもわたって集まり協議してきたのだから,表面的な印象とは違って,きっとそこには何か政治的意義があるにちがいない。

長く続けているからには何らかの存在意義がある!

わたしは,サミットの半世紀を俯瞰して,「先進国の経済政策を調整する会議」から「グローバル・ガバナンスについて協議するメカニズム」へとしだいに変貌してきた点に着目している。平和と安全保障,あるいは途上国支援や環境問題の解決といった「地球規模の課題」については,国際連合があるではないか,という意見もあるだろう。しかし,停滞しやすい国連の議論を補うように,サミットは「地球規模の課題」に向けた政策連携を世界に向けて働きかけてきた。いまや国際連合と並ぶグローバル・ガバナンス(地球統治・地球管理)のメカニズムとして機能していると考えたほうが実情に即しているように思われるのである。

たしかに,ロシアの参加と追放,あるいは新興国の台頭などで,G7サミットの影響力には増減も見られる。それでもG7サミットは,自由と人権の尊重,民主主義,法の支配といった政治的価値観をもった「主要国」の集まりとしての存在意義を今なお失ってはいない。人類の歴史はそうした価値を実現するために多くの犠牲を払ってきた。世界を見渡せば,人権を尊重せず民主的に指導者を選んでいない国の中にも経済大国や軍事大国になっている国がある。そうした「大国」の力による世界支配をはばむとすれば,その役割を国連に期待するのは無理だろう。こう考えると,G7サミットをたんなる「恒例行事」を見るのは,その存在意義を過度に軽視していることになりはしないだろうか。

G7サミットは国際連合と並ぶグローバル・ガバナンスのための重要な国際政治メカニズム!