サミットの歴史を振り返る(その2) ロシアの参加と追放は当然の成り行き!

G7のメカニズムはとても柔軟だ。制度のあり方が「憲法」や「国連憲章」のような文書で決められているわけではないから,必要があれば「G」のうしろに付く数字だって変えることができる。実際,これまで3回,「G」のあとの数字は変わった。G6がG7になったとき,G7がG8になったとき,そしてG8がG7に戻ったときだ。

G6がG7に変わったのは第2回サミットからで,議長国アメリカの主張が通り,カナダが正式メンバーに加わった。一方,G7がG8になったときとG8がG7に戻ったときには,ロシアの参加と追放があった。その期間は,形式的には1998年から2013年までだが,実態としてはもう少し早くから「G7+1」だった。

Gのうしろの数字が変わったのは3回!

G6→G7 1976年 カナダ参加
G7→G8 1998年 ロシア参加

G8→G7 2014年 ロシア追放

ソ連は1991年に崩壊した。その直前,G7首脳はソ連のゴルバチョフ大統領とサミットの場を利用して会談した。実質的なソ連・ロシアのサミット初参加は,このときと言ってよい。この会談後,G7はソ連の国際通貨基金(IMF)と世界銀行(IBRD)への特別加盟を決定した。崩壊間近のソ連を経済的に支援する体制を整えた。その後もしばらく,ソ連崩壊後のロシアへの経済支援はサミットの主要議題となり,G7が国際機関などに働きかけて対応策がとられた。 

1994年,ロシアはサミットの「パートナー」となり,政治討議に招かれるようになった(経済討議には不参加)。公式にいわゆる「G7+1」がスタートしたのだ。

そして,1997年のサミットでついにロシアは正式メンバーと認められた。これを受けて,1998年からサミットの名称は「G8」に変更された。通称も「先進国首脳会議」から「主要国首脳会議」に改められた。ロシアは「先進国」と言える状況になかったからだ。

余談ながら,ロシアとの間に領土問題をかかえる日本は,ロシアのG7参加には一貫して否定的だった。そのため,ロシアのエリツィン大統領は日本の懐柔を試み,1997年のサミット直前の日ロ首脳会談で日本に向けられていた核ミサイルの照準をはずすと約束し,サミットでは日本とドイツの国連安保理常任理事国入りを支持すると発言した。日本は折れざるをえなかった。同年11月にロシアで行われた日ロ首脳会談では,「2000年までに平和条約を締結できるよう全力を尽くす」とのクラスノヤルスク合意が結ばれたのも,ある意味,サミット効果だったと言えるかもしれない。

ロシアが国際金融などを含むすべての議論に参加するようになったのは,2003年からになる。そして,2006年のサンクトペテルブルク・サミットで,初めてG7の議長国をつとめた。サミットとの連携を始めてから15年かかって,ロシアはようやく一人前のサミット・メンバーになれたわけだ。

では,なぜ「西側先進国」の集まりであったG7が,徐々にとはいえ,異質なロシアを受け入れていったのか? 

私は,サミット・メカニズムがグローバル・ガバナンスを担っているからだと考える。ソ連は東欧諸国を始め,多くの国に政治的影響を持つ「大国」だった。そのソ連が崩壊したのだから,世界中に混乱が広がらないように,サミットはロシアと一緒に対処する道を選んだのだ。それに,核保有国の崩壊は史上初の出来事だった。新たに誕生したロシアが不安定だと,核兵器がきちんと管理できなくなるというリスクもあった。つまり,「このままではまずい」という緊張状態の中,サミットは旧敵と対話し,仲間にしていくという決断をしたにちがいない。

こうして,先進国の経済政策の調整のために誕生したG7は,冷戦後の世界の安定のために,主要国の集まりであるG8として自分を定義し直した。サミットの柔軟性があったからこそ実現できたことだと言ってよい。

サミットは,ソ連崩壊で世界に混乱が広がらないように,旧敵のロシアを取り込み,一緒に対処する道を選んだ!

ところが,ロシアはG8から徐々に距離を取っていく。2000年に誕生したプーチン体制は,憲法等の制度を骨抜きにしたり,変えたりしながら「個人支配」を強めていく。当時の任期の制約(2期8年,3選禁止)のために一時的に腹心のメドヴェージェフ首相を大統領に据えた後,2012年に再選されたプーチン大統領は,その年のサミットを欠席した。イランの核兵器開発への備えとしてアメリカが東欧諸国で進めているミサイル防衛配備計画に,ロシアが反発を強めたためだ,という憶測が広まった。

2013年にはサミットに出席したプーチン大統領だったが,紛争の続くシリア情勢をめぐって,アサド政権を支持するロシアのプーチン大統領は矢面に立たされた。他の7か国がアサド政権を問題視していた以上,きっとロシアは強く批判されたにちがいない。「G8ではなくG7+1だった」(カナダのハーパー首相)の指摘まで出た。

そして2014年,ロシアの隣国ウクライナで親ロシア派と親欧州派の対立が激化し,3月には親ロシア派の武装集団がウクライナのクリミア地方を支配して独立を宣言した。しかもその直後,ロシアと条約を結んで,ロシアの一部になってしまった。

この事態に,ロシア以外のサミット参加国の首脳は「緊急会議」を開く。ロシアを非難し,その年にロシアで開催が予定されていたサミットへの不参加を決めた。代わりにふだんは開催国にならないEUがホストとなり,サミットはEU本部のあるベルギーのブリュッセルで開催された。再びG7で行われた首脳会合は,サミット・メカニズムの全活動についてロシアの参加停止を表明した。その後,ロシアは大臣会合にも招かれなくなった。

ロシアが独善的な個人支配と大国主義に傾斜していった以上,G8からの離脱は時間の問題だったと私は思う。外交・安全保障を含む政策協調の場であるサミット・メカニズムに,ロシアは居心地の悪さを感じていたはずだ。メンバーで居続けたとしても,ロシアは会議をさぼったり,決議を遵守しなかったりして,消極的にしか関わろうとしなかったにちがいない。おそらくプーチン大統領には「非難されるくらいなら参加しない」という思いが前々からあったのではないだろうか。

ロシアが独善的な個人支配と大国主義に傾斜していった以上,サミットからの離脱は時間の問題だったにちがいない!

G7首脳は2014年3月の緊急会議の宣言で,ロシアの行動は「自分たちが共有する信念や責任とマッチしていない」と指摘した。この「信念や責任」とは,同年6月のブリュッセル・サミットの宣言の言葉を使えば,自由と民主主義の普遍性,平和と安全の促進,永続的な成長・安定,人権や法の支配の尊重,開かれた経済・社会・政府の形成などのことだ。

こうした価値観の共有を期待されてサミットの正式メンバーになったロシアは,結果的にはそれを拒み,サミットから抜けることになった。2014年は,奇しくもサミットにとって40回目の記念年に当たる。『論語』には「四十にして惑わず」とある。ブリュッセル・サミットは,ロシアを追放することでG7が信念と責任を共有する主要国の集まりであることを再認識し,しばらくはG7で行くと覚悟を決めた「不惑のサミット」になったと言えるだろう。