SNSが選挙にもたらす影響について、また取材を受けた。
さまざまな角度から多様な見方を紹介したが、「SNSはマイナスだけでなく、一般の人が写真や動画を投稿し、公権力の不正を明らかにする側面もある」という部分が引用された。メディア報道とは別の有権者の判断材料の増加や、政治への関心を高める教育効果などは、たしかにもう通説なのだろう。
偽情報については、「選挙で真偽不明の怪文書が出回るケースは昔からあった」というコメントが使われた。選挙に伴って他候補をおとしめる偽情報(悪口)が流されること自体はSNSのせいではない。SNSが問題となるのは、その拡散力(量・速さ)においてであるが、過去には「劇場政治」や「選挙の風」で一気に政局が動くことがあったのだから、要は程度問題ということだと言いたかった。
そして、選挙期間中のSNS規制については、「選挙でのSNS利用を完全に規制するのは難しい」という、きわめて当たり前のコメントが載った(以上、日本経済新聞、2025年4月1日朝刊)。
いつも言うのだが、SNSの政治への影響については、立花氏(NHKから国民を守る党の党首)が公職選挙法の裏をかくようにして選挙活動をしたことをまずカッコに入れる必要がある。議論が1つの事例に振り回されてはいけない。また、アメリカなど他国での現象も踏まえて考える必要がある。
その上で、わたしは偽情報や切り抜き動画などによる「①選挙情報の偏向」と、急速な拡散や演出がもたらす「②感情高揚効果」を分けて考えるべきだと思っている。

SNSでの選挙運動の問題は、「①選挙情報の偏向」と「②感情高揚効果」を分けて考えるべきだ!
この問題についてのメディアの取り上げ方を見ると、①については「SNSで選挙運動を見ている人はフェイクに流されやすい」という偏見が感じられ、②については「扇動的な情報提供はいたずらに選挙を感情的なものとしてしまう」という理性第一主義が垣間見られる。うがった見方をすれば、どちらも「冷静かつ公平で(賢い人たちが編集している)既存メディアの報道のほうが優れている」という先入観に基づいているようにも受け取れる。
わたしは、こうした印象ゆえに、取材には「政治が本質的に劇場的要素をもつこと」や「政治的説得では感情への働きかけも重要なこと」を取材の最初に指摘してきた。当然のことながら、なかなか理解してもらえない。多くの場合、悪影響は取り去るべし、という前提での質問が続く。大騒ぎしすぎなのかも、という意見は受け入れられない。
ということで、今後こういう議論をするのはどうだろうか、というまったく違う案を思いついた。
SNS選挙の問題は、「若い世代中心」と「既存秩序への反発」という特徴において、「大学紛争」に似ているのではないか、というものである。1960年代後半からしばらく続いた、学生を中心としたあの政治運動である。ゲバ棒がなくてもバッシングでき、火炎瓶を投げなくても炎上させられる時代になったが、じつは参加者のメンタリティには共通するものがあるのではないか。そして、それを批判する側の論理も、過激な行動をおそれ、理性的判断(現代ではメディアリテラシー、ファクトチェック等)による回復を求める点が似通っているのではないか。そもそも、「良識」があると自認する人にとって理解困難な現象である点も同じなのだろう。
歴史的視点に立てば、一時的に騒がれ、古いタイプの政治家や既存のマスメディアがうろたえても、そのうちに沈静化していく(慣れっこになる)ようにも思えるのだが、比較すべき前例などないという前提で議論が進むので、こういう見方は少ない。

SNS選挙の問題は「大学紛争」に似ているかも。「若い世代中心」と「既存秩序への反発」という参加者の特徴が共通してて、ツールは違うけど(昔はゲバ棒や火炎瓶)バッシングや炎上という暴力的現象が問題視されてるもんね!
事実、2010年に発生したチュニジアの革命についてはフェイスブックの影響が大きく、このツールがなければ革命は成功しなかったとして「フェイスブック革命」という呼び方までなされた。当時のフェイスブックが拡散力・動員力によって革命を後押ししたことは確かだろう。しかしその後、フェイスブックを危険視して禁止した国はあっただろうか?
ということで、上記の日本経済新聞へのコメントを補足しておこう。「選挙でのSNS利用を完全に規制するのは難しい」し、そもそもツールであるSNSをちょっとくらい規制したところで、既存の社会メカニズムへの感情的反抗はなくならないだろう。日本の民主主義は、きっと「無党派層」の不満を政策につなげる新しい政治集団の形成を必要としているのだろうが、それはまた別の話である。
