2026年1月、衆院選の解散が報じられると、すぐさま各方面から批判が出た。多くはありきたりの言葉を使った批判で、「言葉の政治力」を分析する私の目には、あまりにも陳腐で、政治的センスがないものに思えた。もちろん、定番の言葉遣いのほうが一般市民にもマスメディアにも受け入れられやすいのだから、マイクを向ける人たちが「ほしいセリフ」を使っているだけだ、という解釈も成り立つ。それにしても、もうちょっと工夫があってもよいのではないか。
定番の解散批判には次のようなものがあるが、いずれも簡単に反論できる低レベルの言説である。
1 大義がない
解散総選挙は民意を問うものだ。民主政治の観点からすれば、「大義」は常にある。しかも、国民は内閣の構成や総理大臣を直接選べないのだから、連立政権の枠組みが替わったとか、首相が交代した、というだけで、じゅうぶんに大義になる。口癖のように「大義がない」と批判する人がいるが、では、どういう大義があれば解散してよいというのか?
言うまでもなく、選挙がない国あるいは形式的にしか行われない国は、独裁的とのそしりを免れない。あたかも選挙をすることがいけない、あるいは一定の条件がないとやってはいけないと選挙に制約を課すような言説は、民主政治を軽視する意見と考えるべきだ。

内閣のあり方に大きな変化があったとき、有権者の判断をあおぐことは、民主政治にとって当然のことだよね!
2 政治空白をつくる
政治空白とはなにか? 憲法上、議会を解散しても、内閣は継続する。内閣は仕事を続けることができる。選挙運動期間は無駄だといわんばかりの空白論は、根拠が薄弱である。
それとも、議会が開かれずに政治的決定ができない状況を政治空白と呼んでいるのだろうか? もしそうなら、通常国会が終わる6月ごろから臨時国会が開かれる(かもしれない)10月ごろまで、政治空白がずっと続いていることになる。
ちなみにドイツでは、2025年2月に連邦議会選挙が行われ、第1党が替わったが、連立を組むのみ時間がかかり、新政権が誕生したのは5月だった。それまでは前内閣が継続したが、政権の枠組みも首相の所属政党も新しくなるのだから、前政権が新たな政策を打ち出すわけにはいかない。それにもかかわらず、政治空白はけしからんという批判は、少なくとも声高には出てこなかった。
高市内閣による衆議院の解散は、補正予算が成立し、掲げた政策の一部を実行できる体制が整っているなかで実施される。空白批判はじつに空疎に聞こえる。

国会で議論しないことを政治空白というなら、日本政治は空白だらけだ!
3 党利党略だ
選挙に「勝負」「戦い」「競争」「ゲーム」などの面がある以上、その至上命題は「勝つこと」である。勝つためには戦略がいる。それを党略というのであれば、すべての党が日頃からもっているはずだ。党利党略なく自己満足的に活動していても、国民からの支持は得られず、議席も増えない。経営戦略が売上を左右するのと同じである。今回の選挙は党利党略だと批判の声をあげる政党は、党利党略をもたず、なんとなく政治にかかわっているのだろうか?
私利私欲と同様、党利党略は、自己中心的な「ずるい」イメージを聞き手に与えるために発せられる言葉にちがいない。あまりにも相手の戦略が見事だったときほど、ずるい戦略だと叫ぶしかないのだが、これはたんに、不意打ちをくらって面食らっていることを示しているにすぎない。
では、不意打ちは卑怯なのだろうか? どんなゲームでも正攻法のほかに、思いもつかない一手、というものがある。盗みはよくないはずだが野球では盗塁が認められており、相撲では突進してくる相手を立ち会いでかわしてもずるいとは言われない(「猫だまし」同様、横綱がやると堂々としていないと怒られることはあるが)。
ようするに、意外なことをされたからといって、いちいち「相手が戦略的すぎる」と騒いだのでは、政治家としての自分の間抜けさを表すだけなのではないか?

企業に経営戦略があるように、政党にも政治戦略があって当然! 党利党略がない政党に未来はない!
マスメディアの報道には、1月に選挙をすることの問題点を指摘するものもあった。雪国のことを考えていないのではないか、などというのである。だったら、まず若者の将来がかかっている毎年の大学入学共通テストについて、時期を変えろと主張すべきだ。それに、期日前投票制度があるのだから、天候に問題がない日を選んで投票に行くこともできる。ネタに困ったからといって、瑣末な批判までして解散総選挙にケチをつけようとする報道には、オールドメディアの悪弊を感じざるをえない。
