石破首相の施政方針演説はナイナイ尽くし!

 わたしは戦後の首相の国会演説を読み通して、各首相の政治コミュニケーション力を特徴づけしたことがある。それをもとにした『武器としての言葉政治』(講談社)という著作もある。首相の国会演説の分析は新聞などにも取り上げられてきた。

首相の国会演説は、当然、首相が1人ですべてを書くわけではない。個々の政策については担当官庁の意向が盛り込まれる。そこでわたしは、演説冒頭の基本姿勢の部分と結語、つまり首相の個性が出やすい部分を中心に、首相がこだわりをもっている政策領域などの表現などにも気を配りながら、演説の巧拙を評価している。

もちろん演説の冒頭や末尾にもスピーチライター的な首相秘書官たちも関与していることもあるだろう。だが、他人の筆による表現を容認するかも含めて、首相の個人的なコミュニケーションの資質が反映すると思っている。

 首相の国会演説は2種類ある。1つは臨時国会や特別国会で手短に政治姿勢と述べるもので「所信表明演説」と呼ばれている。石破首相が就任した後、最初に行ったのもこの所信表明演説だった(2024年11月29日)。もう1つは、予算審議を行う通常国会の冒頭に行うもので、「施政方針演説」と呼ばれている。石破首相が2025年1月24日に行った国会演説は、本格的かつ網羅的に内閣の政策指針を示すこの施政方針演説だった。

国会における首相の演説には、所信表明演説と施政方針演説の2種がある!

2025年1月に行われた石破首相の施政方針演説の政治コミュニケーション上の特徴は、以下の2点である。同様の傾向はすでに2024年11月の所信表明演説にも見られた。

1 「呼びかけ」がない。

 政治演説は、聞き手の気持ちを鼓舞し、支持を喚起するために行う。そのため、聞き手と「いっしょに」という呼びかけを含むのが一般的である。定番は、なになに「しようではありませんか!」といった呼びかけで、岸田首相はもちろん、あの菅首相も使ったフレーズである。具体的には「コロナ後の新しい日本を創り上げていこうではありませんか!」「与野党それぞれの立場はありますが、議員各位とともに次の世代のために全力を尽くそうではありませんか。」といった感じになる(岸田首相の施政方針演説、2022年・2024年)。

 国家の未来についての危機意識が高いならば、それを打開するために「国民とともにがんばろう」という気持ちを示すのが、政治リーダーらしい振る舞いであるにちがいない。石破首相は、深刻な人口減少を「静かな有事」と呼び、国民の危機感を煽る。地方創生や地域防災についても、危機感をもって取り組むという覚悟がにじみでている。だが、国会演説に国民の協力をあおぐセリフはない。政府がやるべきことであっても、国民の支持と協力は不可欠なはずだ。にもかかわらず、いっしょに頑張っていこう、という機運を高めるつもりはないように見える。

石破首相は、「国づくりの基本軸」という小見出しを付けた施政方針演説の冒頭部で、「現実を直視」した結果として、「人財尊重社会を築いていく必要」「より自立した形で国民生活を守ることができるよう戦略的な国家運営が必要」「価値観の転換が必要」という必要性の認識をつぎつぎと披瀝した。分析と必要性を指摘が他の首相よりも多いのも特徴的だ。そのうえで石破首相は評論家堺屋太一の言葉を引用して、「豊かな日本」ではなく「楽しい日本」を目指していくと述べた。論理に筋が通っているのかも疑問だが、コミュニケーション論的には、むしろ評論家の言葉の引用が演説をなおさら分析的・評論的に見せている点が気になる。「楽しい日本」の一言で危機感が飛び散ってしまうようにも感じられる。

分析や評論では、いくら言葉がポジティブでも、感情は沸かない。「楽しい日本」の担い手や享受者に自分が含まれているのか、聞き手は実感を持てずに困惑したことだろう(演説後の野党の批判は主にこの点に向けられた)。地方創生についても、演説の小見出しは「若者や女性にも選ばれる地方」である。若者や女性に地方再建の担い手になるよう呼びかけたものではない。(これについては安倍内閣が掲げた「一億総活躍社会」は対比的な事例になるかもしれない。「いわば全員参加型の社会」(厚労省)を意味し、老人も女性も働くことを当然視するような国民意識の動員を図った言葉だからである)。

国会演説なのだから、国民を鼓舞することを主眼とする必要はない。だが、眼前には議員がいて、しかもテレビが生中継をしている。聞き手の存在を無視するかのような一方的な演説に、支持獲得という政治的効果は期待できない。というか、タイパの時代、これでは紙を配って終わりにしてよいレベルの演説だと思われたのではないか。

政治演説である以上、聞き手をしっかり意識したり、呼びかけたりしないとね!

2 「国民向けの引用」がない。

わたしは昔から、長期政権を担った首相に共通の特徴として「能天気」を挙げてきた。愚かではないのかと誤解させる程度に感情的で楽観的で子どもっぽいところが見られるという意味である。中曽根、小泉、安倍の3首相をよく例に出してきた。

石破首相は能天気ではない。「理屈の人」で、整然と語ることを好み、分析・評論に優れている。言葉の使い方などを見るかぎり、宮沢、橋本首相などと同じタイプと言ってよい。能天気ではないのだから、「楽しい日本」を語っても楽しそうには見えない。オタク的なところはあるが、むしろそれは政策への強いこだわりを示す性向に見える。

 政治演説にはしばしば他者への言及が含まれる。これも首相の個性が反映する演説の冒頭や結語の部分に多い。よくあるパターンは、世界的な偉人の言葉を引用するか、自分が出会った国民の言葉を引用する、の2つである。岸田首相は後者がほとんどで(勝海舟はあったが)、和牛生産に取り組んでおられるお母さん、渋谷の子育て支援施設で育児に取り組まれていたお父さん、さらには出会った高校生との対話などに言及した。

石破首相の演説には一般国民は登場しない。世界的偉人も出てこない。政界の先輩である石橋湛山と田中角栄、そして上述の堺屋太一の3名である。このうち、石橋湛山は2024年11月の所信表明演説にも登場した。おそらくだが、石橋湛山首相を身近に感じる人は議場にいた議員たちを含めて多くないだろう。石破首相がこの政治家に言及した意図は国会運営の円滑化にある。野党の協力を重視した首相がかつていて、その精神を自分も尊重したいというだけのことだ。

政界の通向けの話なら、わざわざこんな引用はしなくてもよい。行動で示さないと無意味だからである。政治演説での引用は、本来、自分の考えや気持ちを国民にわかりやすく伝えるためにある。「国会がまっすぐに行くように」と石橋首相が述べたという話では「国民の納得と共感を得られるよう努める」という同じ演説内の言葉がむなしく見えてしまう。もし石橋湛山首相のことを知らずにネットで調べた人がいたら、在任期間がたったの65日しかなかった短命内閣であったことに驚くだろう。短さに驚くのではない。短命内閣にあやかるつもりなのかと驚くのである。  

政治演説で引用するなら、世界的な偉人の言葉か、自分が出会った庶民の言葉だよね!

3 「パフォーマンス」に乏しい。

 演説は聞き手を意識して語りかけるものである。聞き手への説得を強めるために身振り手振りを使うのが政治家らしい演説だが、さすがに首相が国会で演説するときは、比較的落ち着いたパフォーマンスしか使わない。原稿を間違えずに読み通すために集中しなければならないためもあろう。しかし、それでも聞き手がいる以上、相手の目を見て語りかけるのが人間のコミュニケーションの自然なあり方ではないのか。

石破首相は、施政方針演説で話題が与野党協議に及んだときも、議場の議員たちを見なかった。野党議員も自分たちに面と向かって言葉をぶつけてこないものだから、反応としてのヤジを飛ばすチャンスをつかむタイミングを逸したようで、近年まれにみる静けさで民主政治の「理屈」が「朗読」された。

 全体を通じ、石破首相はあまり顔を上げずに演説を読み進めた。眼前にいる議員たちはもちろん、カメラの向こうにいる国民を意識することもなかったのだろう。こうしたパフォーマンスの乏しさは、近年の首相の中では特徴的である(「担々」とは真逆の安倍首相の演説を官邸HPで見比べてみるとよい)。

以上3点から、わたしは石破首相の政治コミュニケーションの特徴を、理屈っぽく感情に欠けるものと評価したい。もちろん、理屈が適切で、それに沿った政策が実現すれば、日本が良くなる可能性は否定できない。しかし、国民をじゅうぶんに鼓舞できない以上、支援を惜しまない国民がどんどん増えていくとは思えない。この首相なら国民の先頭に立って「楽しい日本」を作っていくにちがいないと喜んだ国民はおそらく少なく、むしろ言葉の上滑りを感じた国民のほうが多かったのではないか。

石破首相は尊敬する人として田中角栄首相を挙げるが、僭越ながら、かれの「日本列島改造」という政策だけでなく、「角栄節」とも呼ばれたかれの演説技術もしっかり学んだほうがよい。